■吾国山頂

吾国山頂から北に先週歩いた高峰山、南に筑波山~加波山~雨引山の筑波連山

■吾国山~道祖神峠

■道祖神峠~加賀田山~館岸山

* 加賀田山への急斜面、標高差40mしかないが、樹木の幹や根など掴まるものは無く、一歩一歩足の置き場を見つけながら滑り落ちないように這い上る。帰ってからGPSログで調べると傾斜は約30度だった。

* 加賀田山の山名はどの地図にも表示されてなく、急斜面を上りきったピーク<410m>と思いきや、そこから少し下ったピーク<383m>が加賀田山頂であった。それも現地では小さな表示に気付かず、帰宅してからブログでの山行記録写真から知った。

* 館岸山は「かさまトレイルラン」のルートから分岐し、分岐点にあった朽ちかけてはいるが絵入りで判りやすい案内板をみて、立ち寄ることにした。

* 館岸山山頂表示も小さな札が樹木の幹にくくりつけてあるだけ。なんとか100円ショップで買った小さな三脚をセットし、登頂記録写真(最下段右端)を撮った。

* この山頂に館岸城跡まで200mとの表示があり、ここまで来たからには見てから引き返そうと更に下っていった。

■舘岸城跡 

* 「館岸城」は案内板解説によると、南北朝時代の1387年、館岸山から上郷地区を挟んで南西の難台山中腹にたてこもった南朝軍・小田五郎「難台城」を攻める向城として北朝幕府軍・上杉朝宗が築いたと考えられているとのこと。南朝側「難台城」は兵糧を絶たれ8か月の籠城で滅びたとのこと。

* また近年の調査で、舘岸城は難台山城の出城の可能性や、戦国時代に改修の形跡があり佐竹氏(平安時代から江戸時代へと続く清和源氏の家系の氏族)が使用していた可能性もあるとのこと。

 

*遺構としては現地にあった絵図(左写真)のような配置で、曲輪・土塁・タテ堀・堀切・水場などが残っていて曲輪の中の広場とか土塁堤を歩きまあったが、=敵をどう攻め、自分をどう守り、どう住まっていたのか、どう山の斜面に構築したのか=よく見えなかった。

 

* この筑波山系のエリアで今年歩いた戦国時代に滅びた真壁城とか小田城とは違い、200年程時代がさかのぼる南北朝時代の対面にある難台城跡も次に歩いてみよう。